中野区議会無所属議員11期 父 近藤 正二について

私の父 近藤正二の個人史的本が出版されました

近藤 正二 著 「二十世紀に生きた記録」―私と中野区―

出版会社:株式会社 ぎょうせい

軍国少年として育てられた生い立ち、戦後「平和を守り、文化を高めよう!」と25歳の東大生で中野区議会議員となり内側から見た区政、「文化の中野」をめざし、著名人を集めて40年続
けた「北原文化クラブ夏期教養講座」、地元での生涯教育、二十世紀を生きたひとりの人間の記録ですが、戦後の中野区政の流れも分かります。

娘 近藤さえ子が語る父 近藤正二

11期にわたり中野区議をつとめる近藤正二の姿を、娘 近藤さえ子が昔の思い出などを交えて語ります。

インタビュアーは大学教授(社会政策・社会福祉) 樋口弘夫さんです。

※2003年インタビューより


樋口 「今日は、近藤さえ子さんに、娘の立場で、お父さんの近藤正二さんについてお話いただこうと思います。まず、さえ子さんから見て、お父さんはどんな方ですか?

近藤さえ子 「とにかく、子ども好きです。いつでも、よその子どもに囲まれてニコニコしていました。ですから、近藤正二がずっと続けてきた学校教育を良くしよう、地域の子供たちを守っていこうという活動は、彼の中から自然に出てきたのだと思います。ただ、よその子どもを守る活動に父も母も熱心で、我が家の子どもたちは放っておかれましたね。学校から帰っても親がいないので、私は勝手に近所の家に『ただいま-』と帰ったりしていました。()そのころは、専業主婦や家庭で内職されている方も多く、どこの家にも『おばさん』『おばあさん』や『おじいさん』がいました。みんなに『さえちゃん』『さえちゃん』とかわいがられ、温かい地域の交流の中で、私は育ててもらった気がします」

樋口 「言うなれば、さえ子さんは地域に育てられたということですね。さえ子さんが生まれた時から、お父さんは区議だったのですね。他の家と違うなと思ったことはありますか?

近藤さえ子 1970年代になって、テレビが白黒からカラーになりました。友達の家にはカラーテレビがあるのに、我が家はボロい白黒テレビです。私が何度『カラーテレビ買ってよ』と言っても、父は聞く耳を持ちません。『ケチ!』と言って私が泣くと、父は『中野区の子どもみんながカラーテレビを見られるようになったら買ってやる』と言ったのです。父の立場が理解できるようになって、この言葉を思い出した時は目頭が熱くなる思いでした。家の内や外でのお手伝いは『当たり前のこと』としてやらされました。近所に一人暮らしをしていた祖母に夕食を届けたり、手を引いて町を歩いたり。父が『北原文化クラブ』という会を主宰していて、よく講演会を開いていたのですが、その会場の椅子を並べたり、受付をさせられたり…。遊んだり、テレビを見たい時なのに…つらかったですね」

樋口  「選挙などについての思い出はありますか?

近藤さえ子 「選挙になると家の中は大騒ぎ、学校では同級生に拡声器の声をまねて『こんどう』『こんどう』とはやし立てられ、いいイメージはありませんでした。大人になって、父と一緒に選挙カーに乗るようになると、父を支援してくださる人たちの姿が見えてきました。声が聞こえたから急いできました」と、わざわざ家から出てきてくださるお年よりや、さえちゃんの声を聞くと涙が出てくるわ」と言って手を振ってくれるお母さんがた。政党や決まった組織を持たない近藤正二がこういう一人ひとりの区民に支えられていることを実感し、感動しました。この人たちが幸せに暮らせる地域を作らなくてはいけないと心から思いましたね。父のモットーである『住民優先の政治を!』は頑固一徹なまでに昔から変わりません」

樋口 「小学生の子どもを育てる親として、さえ子さん自身も、地域の活動などに積極的に参加されているようですが」

近藤さえ子 「一昨年、中野区から突然、登下校の子供たちの安全を守ってきたみどりのおばさん」廃止の通達が出されました。働いているお母さん方も多く、PTAも運営が難しくなっている今、『区には出来なくなったので、子どもの安全はお母さんたちに任せます』と急に言われてもどうすればよいのか。この時も『地域の組織』の必要性を痛感しました。
私たちが子どものころは、ほとんどの家に1人は公立の小中学校に通う子どもがいて、その親たちを集めただけでも、形なりにも地域社会ができた気がします。今は子どもの数が減り、多くの家庭が小さな家族単位で生活し、隣近所に住む人たちの顔もわからないというのが現状です。
個人が作る『家庭』、その『家庭』同士を結ぶのが『地域』です。この地域というものを守り、運営していく部分に、上からの押し付けではない『行政』の手伝いがあればどんなにいいかと思います」

樋口 「今、さえ子さんは、介護保険を受けるお母さんの介護もしていらっしゃるそうですね」

近藤さえ子「現在私は夫と子ども2人の4人家族で、父母と同居しています。昨年母が家で転んで骨折して以来、介護保険のお世話になっています。母は家の中では杖を使って歩いているのですが、1人で外に出るのは危険です。外に出かけて人と会ったりすることが大好きだった母にとっては、本当に辛いだろうと思います。幸いなことに、我が家は地域の方に支えられていますので、近所の方が、『調子はどうですか?』とちょくちょく顔を出してくださったり、夕食のおかずを分けてくださったりして、本当に助かっています」

樋口 「これまでお父さんお母さんが地道にやってきた地域活動に、今助けられているというわけですね」

近藤さえ子 「ええ、でも、我が家は特別だと思います。これが、高齢者の1人暮らしや高齢者同士の介護の場合、近所に親しい人もいない場合はどうなるでしよう。介護保険は月々の1割負担が必要なだけでなく、支払われる限度額が決められています。もう少し長い時間サ一ビスを受けたいと希望しても、経済的理由などで受けられない場合もたくさんあると思います。これからの極端な高齢化社会は、介護保険では賄いきれないでしょう。ここにも、地域社会の大切さがあると思います」

樋口 「なるほど、新たな時代に合った地域作りを、行政を含めてやっていければいいということですね。介護保険は、在宅介護を支援するものですが、必要なサービスを全て供給できるわけではありません。すべてを公的なサービスに求めれば、大きな税負担を覚悟しなくてはなりません。だれもが個人の二一ズにあったサービスを受けられ『満足した生活』を送るには、家族やボランティア、そして地域の人たちの支えなど可能な力を結集できるシステムがなければ難しいですね。 お話を伺って、さえ子さんは社会的正義感の実に強い方だと思いましたが、この性格もお父さん譲りでしょうか」

近藤さえ子 「どうでしょうね」()
「ただ、父は自分の生活以上にいつも地域の人々を大事に思ってきた。いつも弱いものの味方であろうとしてきた、そのあたりは受け継いでしまったかもしれません」

樋口 「今日はありがとうございました」

近藤正二 区政報告及び新聞記事

父近藤正二の発行した区政報告の一部と1999年2月9日発行の読売新聞の記事をご紹介します。

私の区政報告No.29
(2003年3月30日発行)

私の区政報告No.26
(1998年11月20日発行)

私の区政報告No.29 (2003年3月30日発行)
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私の区政報告No.26(1998年11月20日発行)
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読売新聞記事(1999年2月9日発行)

読売新聞記事(1999年2月9日発行)
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父の綬賞

2007年11月03日

2007年11月03日 父の綬賞秋の叙勲。父近藤正二が、旭日小綬章を綬賞し、本日の新聞に発表されました。
旭日章は、明治8年に制定されたわが国最初の勲章で、その内の旭日小綬章は、叙勲制度が平成14年に制度改革される前は勲三等瑞宝章と言う章だったそうです。勲章を貰う事が決まると、その方面の業者の営業活動が盛んに行われます。今日の新聞発表前から、額縁を扱う業者のカタログが沢山送られてました。お祝いの電話が入り、祝電が届き、来客が来るなど、忙しくなりました。父は、当初は「私は勲章など要らない」と頑張っていました。しかし、長い間、地域で共に、地域のため、子どもたちの健全育成のため、汗を流し供に歩んできた方が「長い間本当にご苦労様でした」と喜んでくださる言葉を聞くと、「皆さんのおかげです」とさすがに嬉しそうに頭を下げていました。

この数年、父にとっても、つらく悲しい事ばかりの日々でしたので、私としては、喜べる事が一つでもあってよかったと思いました。

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